食べて生きること

 

 私は食べて生きていくことが下手である。

 

 

 

 

 何を言いたいのかというと、食に関してとにかく疎い。自他ともに認めざるを得ない舌バカで、味の違いはあんまりよく分からない。自分ひとりで食事をする時は、空腹を凌ぐために、取り敢えず何かを胃に流し込むといったような感じである。パンでもおにぎりでもカップ麺でも、舌バカなりの味に合うものだったらなんでも食べる。

 好物は特にない。雑食。嫌いなものはネギ。無理of無理。

 

 

 

 

 ’おふくろの味’なんてものは知らない。

 母は料理を作ることが嫌いである。母親自身も少食であるため、家族のために自分が食べられない量の食事を作るのは相当苦痛だったのであろう。

 

 本当に美味しいものを知らない。

 基本的に外食をしない家庭であった。唯一、覚えている事は幼少期の誕生日にご馳走だと言って安いファミレスのなかなか噛みちぎることのできないステーキを食べさせてくれた。この経験があるからなのか、ステーキと謳われるものを頼むのは今でも気が引ける。だってご馳走なんだもの。

 

 糖の味は知っている。

 我が家の冷蔵庫を占めているものは、野菜や調味料ではない。チョコレートや炭酸飲料などのたっぷり糖分を含んだ有害物質である。砂糖は麻薬だと言われることもしばしばある。今でもそれらを摂取し続けている父は大丈夫だろうか。

 

 家族団欒を知らない。

 家族全員で食事をすることが辛い。これは昔から感じていることで今でもなお痛烈に感じる。そもそも家族の仲が悪いので、会話が弾まない。

 読書感想文を書くために太宰治の『人間失格』を読んだ。内容はほとんど忘れてしまったが、唯一、印象に残っている文章がある。

 自分だって、それは勿論もちろん、大いにものを食べますが、しかし、空腹感から、ものを食べた記憶は、ほとんどありません。めずらしいと思われたものを食べます。豪華と思われたものを食べます。また、よそへ行って出されたものも、無理をしてまで、たいてい食べます。そうして、子供の頃の自分にとって、最も苦痛な時刻は、実に、自分の家の食事の時間でした。

 

 

 

 

 

 ある日の昼、友人同士の会話が聞こえてきた。友人Aは友人Bに問いかけた。

 「最近、糖質制限している」と切り出しながら、私は見た。友人Aがチョコチップがたっぷりと練り込まれたパンを食べているところを。友人Bは答えた。

 「甘いものを受け付けなくなった」と答えながら、私は見た。友人Bがコンビニで売っているBIGチョコバーなる駄菓子を貪っているところを。私は考えた。

 「絶対ブログのネタにしてやろう」と。

 

 糖質制限ってなんて便利な言葉なんだろう。

 

 

 

 

 

 こんな私も最近ようやく食への喜びが分かるようになってきた。

 

 

 広義に好きな人、又は一緒に居て心地よい感覚を与えてくれる人と共にする食事は本当に美味しく感じる。

 

 ・・・・・ちょっと待って、ブラウザバックしないで!!!

 

 私が言いたい事は、惚気話ではない。

 食事は食事をする相手・空間・雰囲気をも美味しく感じる重要な要因で、私の家族では味わうことができなかった団欒というものをこの歳になってようやく気付けたことである。

 

 

 

 前置きが長くなりすぎた。

 誰か美味しいもの食べに行こう。

 

 

 

 

芸術鑑賞のススメ

 

 この間、錯視が用いられた作品が有名なオランダの版画家エッシャーの作品を観るべく、あべのハルカス美術館へ足を運んだ。

 

 生まれて此の方、純粋に芸術作品を観ることを目的に本格的な美術館に行ったことがなかったが、今回友人からの誘いを受け、行くこととなった。

 正直心配であった。この私に芸術を理解できるのか、と。確かに中学、高校の美術の授業も真面目に勉強する気がなく、ましてやムーミンの絵を描かせれば、もれなく肩幅の広いムーミンっぽいものが出来上がる始末。自分の絵の下手さは自分が一番よく知っている。悲しい。

 

 

 ここからは実際に作品を観た感想を述べていこう。

 「はえ〜〜〜〜〜」「すげ〜〜〜〜〜〜」「細かいな〜〜」「なんかよう分からん」

 「これ有名なやつやん」「はえ〜〜〜〜〜〜〜〜」

 

 最終的には、YES! プリキュア5の「スマイル go! go!」のワンフレーズを思わず口ずさんでしまった。「メタモルフォーゼ〜〜〜〜」(エッシャーの大作『メタモルフォーゼⅡ』に参照)。

 

 完全にIQが溶けている。

 そこらへんの幼稚園児に感想を求めても同じような感想が返ってくると思う。

 

 そんな私でも作品をよく観察して気づいたこともある。エッシャーは風景の版画作品を多く遺しているが、その多くはほとんど写真と遜色がないほど細かく描かれている。よ〜く観察すると、建物の陰影や波まで細かく表現されているのである。

 『昼と夜』という作品では、忠実に左右対称に風景が描かれているのだが、これは版画作品であり、エッシャーの頭の中では常に完成図が描かれながら作品を描いていることに驚きである。どれだけ見ても左右で間違いを発見することはできなかった。

 誰でも一度は見たことがある『滝』の作品をこの目で間近で観ることができたのは貴重な体験だったと思う。これでエッシャーに関しては他人にマウントを取ることができるぞ!やったね!

 

 

 この日は祝日だったこともあり、親子で観に来ている家族が多く見られた。その子供は作品を観て何を感じて思ったのだろうか。親は子供に何を教えてあげることができたのだろうか。おそらく、自分と同じようにIQを溶かしていたに違いない。おそらく。

 

 ということは芸術鑑賞をして個人が何を考えようと勝手なのだと自己解釈する。

 だから、IQを溶かしながら「メタモルフォーゼ〜〜〜〜」と口ずさんでいても間違いではなかったと信じたい。

 

 

 こう考えるとこれからは少しくらい芸術鑑賞の機会を設けてもいいのかもしれない。

 個人的に行ってみたい美術館は徳島県鳴門市にある大塚国際美術館である。この美術館の特徴は、展示されている作品すべてが陶板で再現された世界中の有名な作品が多数展示されていることである。『最後の晩餐』や『モナリザ』なども原寸大で再現されている。これは一日中居ても飽きなさそうだ。

 

 徳島に住んでいたこともあったので、その時に行っておけばよかったなと後悔の念はあるが、色々と落ち着いた頃に一度訪れてみたい。私と一緒にIQを溶かして芸術鑑賞をしてくれる友人を連れて。

 

 

 

鏡に映るあなたは…

 

 部屋には姿見がある。半年程前に3000円くらいで購入したが、価格の割には作りがしっかりしている。まさにお値段以上で満足している。

 

 

 毎日の服装選びは本当に面倒なものだ。あれを着る、これを履く、それを被る、気に入らなければ脱ぐ、そして着る。派手すぎないであろうか、それとも地味すぎるのか、その日の気温は寒いのか暑いのかを考えながら、姿見を見る。

 鏡に映るあなたはどんな服を着ているだろうか。これは鏡を通すことでしか詳細に知ることができない。ここから思うことは個人的な意見なので「コイツ何言ってんだ?」という目線で私のことを思い浮かべてほしいのだが、

つまり鏡に映る自分は自分ではない気がして仕方がないのである。

 確かに自分の意志で服を選び、それを着ている感覚もあるが、自分ではその服を着ている自分を見ることができない。鏡に映っている自分が他人に見えている姿を想像すれば尚更、そういう思いが強くなる。

 

 支離滅裂で分かりにくい文章をブログに書いてしまった。あーーーー誰にもわかってもらえないだろうなーーーー。これも認知心理学を学んでいる弊害なのかな、知らんけど。

 

 

 ファッションは様々な役割を担っている。機能・価格・デザイン・自己満など。どれを取るのも人の勝手であるが、大体の人は少しばかりの体裁を気にする。シャツとジャケットで真面目に見られたい!派手め・柄もので個性的に!地味な色で良いから大人しく見られたい!とか。

 服装で人の印象が変わるみたいな実験は調べたらめちゃめちゃ出てくるし。就活のネクタイの色(赤は情熱的、青は知的、黄色は明るい)みたいなのもあるなあ。

 

 個性的だから柄ものを着るのではなくて、柄を着ているから個性的なのか

 反論もたくさんありそうやけど、自分は後者の意見です。だからこんな支離滅裂な文章が書けるのか。納得した。

 

 

 卒論のテーマにでも使えそうかなとか考えながら、また明日も鏡に映るあなたは理想的な服を着て出掛けていくのだろう。

 

 

 

みんな違ってみんな良い?

 

 みんな違ってみんな良い?

 

 少なくとも張り切ってブログを開設して「3日坊主にならないように」と書いたものの、見事4日で坊主になってしまった私は良くない。未だに続けるとは言っていないので困った。

 

 こころに余裕があると文章を書きたい欲求が高まる。しかし私のこころにキャパはない。困った。

 

 

 今日は私用で電車に乗って街に繰り出した。

 551の蓬莱の紙袋を持った車内テロ主犯格の中年女性。半袖シャツで街を闊歩していたお兄さん。軍手をつけた音ゲーマー。公園でウクレレを弾きながらブルースを唄っていたおじいさん。歩いていたら急に立ち止まって話すおばちゃん2人組。

 

 大阪の街と私の地元には面白可笑しい人が多い。この人たちは本当にみんな違ってみんな良いのか自分なりに勝手に予想してみた。

 

 車内に立ち込める豚まんの匂いで人の嫌な顔を見たいがために「豚まんハラスメント」略して「豚ハラ」をしているのかもしれない。

 元は長袖だったシャツを破って半袖シャツにしたのかもしれない。

 音ゲーマーは大体軍手をつけているものだ。素手でmaimaiをしていた私の方が、面白可笑しかったかもしれない。今日も指紋がなくなりかけた。

 若い頃は伝説のギタリストと呼ばれたが、今はギターではなくハワイで買ったウクレレを相棒に年金生活の吐き溜めにしているのかもしれない。

 大阪の街で急に立ち止まるのは死を意味する。

 

 私の予想ではみんな違ってみんな良いはずがなかった。「豚ハラ」ってなんだよ。

 

 人間観察をしていると、他人の人生を勝手に考えちゃったりする。馬鹿馬鹿しいが、これが結構暇つぶしになる。普段からイヤホンで音楽を聞いたりしないのも、人間観察が楽しいからという理由になるかもしれないと格好つけてみたけど、本音は好きなアーティストがいないに尽きる。

 高かったイヤホンも女性の喘ぎ声しか聞かないとなれば、悲しんでいるに違いない。

 

 

 見ず知らずの他人の人生を考えていたら、自分の人生は他人が予想するに値しない退屈で陳腐な人生だと気づいた。気づくのが遅い?すいません。反省してます。そりゃ、”人生における選択肢はもう決まっている”っていう考えもしたくもなります。はい、本当に中身のない人生を送ってきてごめんなさい。

 

 

 こんな私でも小豆色の電車の中で居合わせた、見ず知らずの誰かにとっての牌の一部になっていたらと願うばかり。

 

阪急電車 (幻冬舎文庫)

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ドミノ (角川文庫)

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みんな違ってみんな良いんじゃない?自分も然り。